こんな話を聞きました。
後藤さんは小さい頃、お父さんと、お母さんと、妹と、サカイさんの5人で暮らしていたそうです。
家は2階建てだったのですが、1階は後藤さん一家が使い、2階はサカイさんが専有していました。
サカイさんは後藤さん一家とは生活時間が異なっていたようで、普段は後藤さんが起きるよりも早く家を出て行って、後藤さんが寝付いた後に帰ってくるということでした。
たまにサカイさんが一日中家にいる日もあって、
「そんな日は一緒にご飯食べてたし、お風呂入れてもらった記憶もあるよ」
ご両親も特に何か気をつかっている様子もなく、たまに夜、姉妹ではしゃいでいると、
「サカイさんが起きちゃうから静かにしなさいよ」
と言われた覚えがある程度でした。
サカイさんは、どこかくたびれたような、疲れたような感じでしたが、優しい顔をしたヒゲのおじさんだったそうです。
「夏になると、ザリガニとか取ってきてくれて。嬉しかったな。幼稚園に持って行って自慢してた。釣りに連れてってもらったこともあったな」
ただ、当時は幼い時分でしたから、サカイさんが何者であるかは分かりませんでした。
「まあ、結局今でも分かんないんだけど」
今になって思い返すと、後藤さんのご両親はあまりご関係がよろしくなかったそうです。
後藤さんが小学校に上がる頃には離婚して、母親に連れられて妹共々家を出ました。
当然、それきりサカイさんに会うことはなく、その存在も最近まで忘れてしまっていました。
父親が亡くなったとの報せを受けて、妹とともに葬儀へ出たそうです。
母親は通夜に顔を出す程度にしておいたとのことでしたが、離婚したとはいえ、後藤さんと妹さんにとって父親は決して悪い父ではありませんでした。
火葬場で父親の亡骸が焼かれている間、後藤さんは表でタバコを吸っていました。
その頃の後藤さんはご主人と上手くいっておらず、どうしようかな、とぼんやり考えていたそうです。
DVなんかを受けていて、自殺といった言葉が頭に浮かぶ日も少なくありませんでした。
両親が離婚して、自分まで離婚してしまったら妹はなんて思うだろう。
父親が死んで、自分も死んでしまったら。
妹には幸せになってほしいな。
父親は孤独死だったそうです。
孤独死。
どんなことを思いながら死んでいったんだろう。
父親のさみしさを思うと、後藤さんの目から涙がこぼれました。
「失礼」と言って、灰皿に手が伸びてタバコの灰を落としました。
後藤さんが声のした方を見ると、初老の紳士がいました。
どこかくたびれたような、疲れたような感じの、優しい顔。
「やっぱりアヤちゃんだ。大きくなったね」
その声を聞いた瞬間、後藤さんの子供の頃の記憶が呼び起こされたそうです。
「……。サカイ、さん?」
「この度は、……。残念だったね。私もとてもお世話になったから」
この人なら、何か父親のことを知っているかもしれないと思いかけましたが、なぜかそれきり、後藤さんの思考は停止しました。
「……。大丈夫だよ、大丈夫。何も心配しなくていいんだよ。アヤちゃん。君のお父さんはね、最期まで君と、ヒカリちゃんと、君たちのお母さんの幸せだけを願っていた。色々あったけれど、お父さんはやっぱり、君たちのことが何より大切だったんだ。それだけは信じてほしい」
記憶の中にある通りの、優しい声でした。
「強すぎる思いは、呪いのようになってしまうことがあるんだ。しかし本人がそれと気がつかないから、相手のない呪いになる。相手のない呪いは、呪いを作った本人に返るしかない。……。何事も、思い詰めすぎないようにした方がいいという話さ」
後藤さんは、はい。はい。と相槌を打つことしかできなかったそうです。
「これからアヤちゃんに呪いをかけよう。呪いといっても、いい呪いだから大丈夫。アヤちゃんはお父さんの願った通り、お父さんの分まで長生きして、幸せになる。良かったね。私が君たちと過ごした時間のような、温かく、明るい、優しいものが見つかるんだ。私はそれをお祝いしよう。大丈夫。君なら必ず上手くいくから」
サカイさんは後藤さんの肩を優しく叩くと、その場を後にしました。
その後いくら探しても、サカイさんの姿を見つけることはできなかったそうです。
わたしにとって後藤さんのイメージはパワフルで明るい母ちゃんだったので、その話を聞いて結構びっくりしました。
「サカイさんの呪いですっかり変わっちゃった。急に目の前がはっきりして、色が鮮やかになったのを覚えてる。ダンナとは速攻離婚して、幸せだよ、今。すごい幸せ」
今では3児のシングルマザーですが、女手一つで2人を大学まで行かせて、下の子も今年大学受験を控えているそうです。
「でもサカイさん、わざわざ呪いって言ったんだから。人を呪わば穴二つ、サカイさんも幸せになってくれたらいいな。また会いたい。ヒカリも連れて一緒に飲みに行きたい」
どこか遠くを見るような顔の後藤さんを羨ましく思いながら、呪いってすげえやと感心している今日このごろです。
では!