ことあれかしだった

ちいさい怪談や奇譚を細々と書いています

優しさとパワー

こんばんは。

ついに今年も終わりますね。

サラリーマンにとっては仕事納め=年の終わりです。

 

古事記読みました。町田康さんの。

むちゃおもろかったので年末年始のお供にぜひ。

雑とも言えるような口語訳の中に時折垣間見える切なさがたまりません。

わたしは夫婦茶碗が狂おしいほど好きです。

 

最近思うのですが、いや、最近でもないですね。ずっと思ってるのですが。

優しさとか、おおらかさとか、テキトーさとか、「まあ、いいよ」という感覚。

これがやっぱ欠けてるんだなーと思います。

何とは言いませんが、全体的に全部。

私が子供の頃なんかは結構、そういう感じが残ってて、健やか、というと、現代の健やかさとは随分定義が異なるんでしょうけれども、知らない爺ちゃんが鎌持って追いかけてきたりしても、「死ねジジイ」とか言いながら石投げてたあの感覚。

牧歌的な感じ、殺伐とした感じ、てきとうな感じ、エグい感じ、ゆるい感じ、そんなものが同居してて、別に家に帰っても親にその話をするでもなく、日常の1シーンとして何でもない風に片付けられていたあの感じ。

みんなてきとうで、かつ強かった覚えがあります。

鎌持って追いかけてくる爺ちゃんも、別に本気で我々を殺そうと思っていたわけではないでしょう。

仮に本当に殺そうと思っていたところで、子供の身体能力でやり過ごせる程度です。

で、それを目の当たりにして怖いと思うでもなく、「上等だかかってこい」と言う子供。

ちょっと例が極端かもしれませんが、優しさ、というと「いやいやいや」となるかもしれませんが、子供時代のわたしの周りには優しさが溢れていました。

ある意味予定調和のような。

柱に縛り付けられて、家族から水をかけられる情景。

今では紛うことなき虐待ですが、当時は本人も含めて誰もなんとも思っていませんでした。

やられている本人も、「ぎゃーちべたい! やめやがれ!」といった感じで、何というか、のんきでした。

それは単なる優しさ--「いい子いい子」と膝の上でよしよしされているようなものではなく、今の感覚でいうと、「愛しているなんてはそんなもん当たり前。こっぱずかしいからそんなこと一々口に出すんじゃないよ」という前提のもと、はたから見ると殺伐としているように見えるコミュニケーションとでも言えばいいのでしょうか。

あからさまではありませんでしたが、確かに優しさがあって、その上で起こる事象にとらわれない、……なんか説明が難しいです。

わたしが当時のことを思い出しても、負の感情を伴わないのです。

獅子は我が子を千尋の谷に落とすというほど立派なものではないですが、何となく近いものは感じます。

自分がてきとうなのだから、あなたもてきとうでいいよ。

効率を限界まで求めた先にあるものは自殺だよ。

自分がおとなになって、効率の鬼になりかけた際にいつも思い返します。

生き急ぐとはよく言ったもので、根本的に人間の存在は無意味なのですから、目的のない効率化は結局のところ「じゃあさっさと死ねば」になります。

極度に頭脳が明晰な人、かつ人生に目的が見いだせない人が死にたがるのはこのためです。

これを避けるための方便としてやりがいや利他主義自己実現なんて言葉があります。

いえいえ、「なんか知らんけど生まれて生きてるから、死ぬまでは生きてみるよ」でいいと思います。

人が生きる理由なんてそんなもんでいい。

優しさとパワーがあれば、随分ラクになるでしょう。

おおらかに、殺伐と。

優しさだけでは世の中の圧に耐えきれないでしょう。

パワーだけでは単なる蛮族です。

優しさとパワーを持ち合わせてはじめて、「めんどくせえけど、しゃーないか」と乾いた笑みが浮かべられます。

乾いた笑みを浮かべたい!!

 

では!