ことあれかしだった

ちいさい怪談や奇譚を細々と書いています

死に方

こんばんは。

湿度が低すぎて指ガッサガサです。

汗っかきなので、湿度なんか低ければ低いほどいいと思っていたのですが、何事も適当がいいと思い知らされます。

 

ここ2〜3年ぐらいで、わたしと縁のある人が何人か亡くなりました。

そういう年頃なんかなと思いながらもやっぱりどこか寂しくて、供養にもならないですが、夜になるとたまに死んで行った人たちを思い返すことがあります。

昨日もお葬式に行ったのですが、亡くなったのはわたしの人生の指針のひとつを示してくれた人で、あまりにも早く、また突然だったので、月並みですが、いなくなったことがまだ信じられません。

普段から年単位で連絡を取らないことなんかザラだったので、誰にも教えられなかったら、今もその人はわたしの中では生きていたはずです。

そう考えると、リアルで顔を合わせる以外はみんなバーチャルなご時世ですから、案外認識のズレで生死が曖昧になってる人って多いんじゃないかしらと思います。

おっと、これ以上はむつかしい話になりそうなので控えましょう。

去年の秋には婆ちゃんが亡くなりました。

90を超えたうえでの老衰でしたから、死を悲しむというよりも、どこか大往生のお祝い会のような雰囲気で、焼かれた骨が出て来たときに骨にボルトがいっぱい混じってたので、「サイボーグやん」と呟いたところ隣にいた叔父さんが吹き出したのを覚えています。

わたしは人の死について、茶化すまではいきませんが、そんなに重く受け止めない性質のようです。

伴侶や子供ができればまた変わるのかもしれませんが、人が今際の際にいるとき、またその生涯に幕を下ろしたとき、寂しさはあるのですが、悲しさを感じません。

信心がないかと言うと、そんなことはないと思っていて、故人の遺品は大事にしていますし、法要なんかも欠かしません。

そもそも仏教やキリスト教は哲学の一種だと思っていて、冠婚葬祭にまつわるしきたりはその側面の一つに過ぎず、仏教であれば解脱、キリスト教であれば天国へ行くための通過点です。

解脱にしろ天国にしろ、普通に生きてるときにこそ強く意識しなければならないと思うのですが、人の死を通じてそれらを強烈に意識せざるを得なくなるので、いわゆる宗教の存在感が増すのは、死というものを身近に目の当たりにしたときが多いんでしょうね。

普段怪談のようなものを書いているのも、おばけを信じている、信じていないからという理由ではなく、あれは単に昔どこかで聞いた「文章の極意は怪談である」みたいな感じの言葉に囚われているからに過ぎません。怪談好きですし。

何の話をしているのか分からなくなってきましたが、自分が死んだときはどうしてほしいかなーと思うと、なるべくお金はかけてほしくないので、生命保険は必ず入ろう。。

でも自分はお金かけてほしくないし、だいたい死ぬ人もお金かけないでって生前言ってたのですが、いざそうなるとできる限り盛大に見送りたいと思うのも人情ですよね。

死に方、と言うほどカッコいいものではないですが、わたしは最期どこかで野垂れ死ぬ予定なので、身元の分かるものを携帯するかどうかが目下の懸案事項です。

 

では!